和泉蜻蛉玉とは – #04 山月工房の歴史

山月工房の歴史

山月工房のはじまりは昭和20年、当時は終戦直後で貧しく、食事もろくにできない状態であったと聞いています。

先代(父)の小溝時春は、小学校では友達も多く人気者で級長を務め、成績・運動とも優秀で通知表では、全優(優・良上・良・可)であったそうです。
しかし、家庭を支える為11歳のころに叔父さんより師事をうけガラス業をはじめました。
時代の変換期とはいえ、優秀な生徒が学業を続けることができず、仕事をしないと生きてゆけない状況に担任の先生も涙していたと聞きました。

当時は、この地域の古くから伝わる地場産業として村中の人々がガラス業に従事しており、分業制でガラス生地屋・職人・加工屋・ブローカー(仲介業者)に分かれていました。

父は、そのうちの職人として複数人が従事する工場で作業していましたが24歳の時、母との結婚を期に母の実家裏に自身の小さな工場を持ちました。
このときの小さな工場が、後の山月工房となります。

山月工房

時は流れて昭和52~3年頃、地元ブローカーが中国にガラス業の技術を流出させてしまい、安価な中国製品におされ約半年の間にガラス職人は激減。
地元ブローカーは、金儲けができウハウハ!!!一方、今までブローカーの言う通りしてきたのに、何の連絡もなく急に生活ができなくなった職人たち・・・。
多くの職人・工場が閉業を余儀なくされ、このころの地元の雰囲気は殺伐としていたことを覚えています。

和泉蜻蛉玉

地元でつくっていたガラス玉の種類は多岐にわたり、職人によって得手・不得手があり、小さな玉専用・方穴専用・変形専用・丸玉専用・・・などなど、数えきれないほどに分かれていました。

山月工房

山月工房

山月工房

しかし父の場合、元々の負けん気・頑張り屋の性格からか、他の職人さんが嫌がる難しい仕事も次々と受けながら「お父ちゃんも閉業せなあかんのかなあ~・・・」と心配していましたが注文が絶えることはなく、気が付けば地元の専業ガラス職人最後のただ一人となっていました。
注文が絶えなかったのは、物づくりへのこだわりと海外では真似ができない技術力・信用が父には備わっていたのだと思います。

山月工房

そんな父の技術とこだわり、負けん気があったからこそ、和泉蜻蛉玉を伝統工芸品指定いただくことができました。
父の技術にはまだまだ追いつけておりませんが、父と皆様から託されたこの想いは和泉蜻蛉玉ひとつひとつにしっかりとこもっています。

山月工房の名前の由来

ブローカーとのやりとりが主であったため実はあまり名前を考えていませんでした。
しかし百貨店のイベントへ出店するなど、徐々にお客様に手に取っていただけるようになってゆくにつれ、工房の名前をよく聞かれるようになりました。
今までは確定申告の時にだけ書類に「小溝商店」と書いていましたが、お客様に誇れる名前かと言えばそうでもなく、父と一緒にしばらく考えていました。

ある夜の散歩道、ほろ酔いの私たちが空を見上げると綺麗な満月が・・・

父「月いいな~月、お父ちゃん月好きや!工場の名前に月入れよか?」
私「いいな~他に好きなものは?」
父「ほかに・・・?山、山が好きや」
私「じゃ月と山で・・・山月でサンゲツは?」

・・・で決まりました。
今思えばあまりにも簡単なやりとりですが、「山」と「月」どちらも一歩引いたところから優しく見守ってくれているような、大きくて、静かに寄り添う先代の優しさが現れているのだと感じます。

山月工房

この想いは、和泉蜻蛉玉の少し控えめに「女性の美しさを引き立てる」という信念にも通じるところがあるのかもしれません。


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