ガラスの聖地へ
古くからの伝統をどのように守っていくのか先人に倣うべく、世界的に有名なムラーノガラス(ベネチアンガラス)の品数・そして日本ではあまり使われず、あまり馴染みがないガラス材料を視察し参考にしたい、と思いガラスの聖地ベネチアへ行くことにしました。しかし「行くことにしました。」とはいえ、知り合いも何もない状態でしたので・・・まず、日本のデパートでベネチアンガラスを販売に来ていたベネチアンガラスショップのL’albero(ラルベロ)さんにメールしました。
奥様が日本人でしたので、比較的スムーズにデパートへお邪魔しお会いすることができました。
しかしベネチアでは「視察」という概念がなく「ただで工場を見せる」などという無駄なことはしないようでした。
ただ一つできるとしたら、腕利きの日本人ガイドさんに頼み、信用のある その方からムラーノガラスの各工場に頼んでもらうという方法しかないと聞き、早速ガイドさんをご紹介いただきました。
ガイドさんに無理をお願いし、何とか普段入れない工場にも入れてもらいお話を聞かせていただくことができました。
ムラーノガラスの歴史・ムラーノガラス組合・学校・ガラス材料屋さん・ガラス製品製作工場・・・多くの経験をさせていただいたり、腕利きの職人が力を合わせて復元した古いシャンデリアを見せていただいたり、日本人の私の活動に賛同下さる方々も多く、大変内容の濃い視察となりました。
その中でも、L’albero(ラルベロ)のオーナーでありベネチアンガラスアーティストのピーノさんのお話がひときわ印象深く残っています。
学術面ではムラーノガラス学校の先生として若い方々に教えた経験を持ち、技術面では唯一無二の技法を編み出し、日本でも展示会をするなど精力的に活動・・・数え切れないガラス職人がいるベネチア中でも、一際目立つ存在であったピーノさん。
学術面ではムラーノガラス学校の先生として若い方々に教えた経験を持ち、技術面では唯一無二の技法を編み出し、日本でも展示会をするなど精力的に活動・・・数え切れないガラス職人がいるベネチア中でも、一際目立つ存在であったピーノさん。
私が抱えている問題をピーノさんに伺ってみました。
私が「伝統を後世に残してゆくにはどうすればいいとおもいますか?」と聞くとピーノさんは、すかさず「パッション!」と言われました。
奥様のかなえさんが通訳をしてくださり
「ピーノはいつもパッションが大事だと言うんです。まずは、夢を持ち・環境を整え・あらゆる事に柔軟に対応し…そしてパッション(熱い情熱)があれば、オッケー!」とのことでした。
ピーノさんの先代もガラス工場だったと思います。
そんなピーノさんがおっしゃった言葉にはとても重みがありました。
日本とイタリア、遠くはなれた地ではありますが環境が私と似ている方から貴重なお話を伺うことで、これから歩む道筋が照らされたような気がしました。
最後は、パッション。
私自身が山月工房に、そして和泉蜻蛉玉にどれだけのパッションを注ぐことができるか・・・
そんなことを考えていた時に、今も私の中枢となっている父の言葉を思いました。
「ウソは絶対にあかん絶対に。人間は、自分にウソはつかれへんのやから」
自分は本当はどうしたいのか、どう思っているのか、自分の内なる声をしっかりと聞いて、パッション(情熱)に変換する。
これは自分にウソがあってはできないことだと思います。
言葉と表現こそ違いますが、もしかしたら父もピーノさんも伝えたいことの芯は同じであったのかもしれません。
伝統工芸品として認定された和泉蜻蛉玉ですが、しかしそこで歩みを止めていては伝統は続いてゆきません。
そこで、山月工房ではふたつの一歩を踏み出しました。
そのときのお話については詳しくはこちらをご覧ください。
「平等院鳳凰堂、国宝復元の話」
この時に1000年前につくられた国宝に使用されていたガラスと、山月工房で使用していた和泉地方で古くから作られてきたガラスが奇跡的にほぼ同じ成分であることが分かりました。
その事実に驚きましたが、このガラス材料は和泉地方で古くから作られてきた貴重なもので、現在では新たに入手することが困難な状況です。
そこで山月工房では、「千の時」復刻プロジェクトとして、同じ組成・色彩の材料を復刻・開発することにしました。
これが、ひとつめの一歩です。
人の手と心によってつくられる和泉蜻蛉玉は、相伝によって受け継がれてきました。
山月工房では、1994年生まれで現在見習い修行中、伝統工芸士 松田有利子の娘、松田有綺(ゆうき)と研修生が三代目を目指しています。
三代目までの道のりは、わたしたち山月工房自身も気付いていなかった発見、いつか見返すことで蘇る想いが散りばめられた宝の道であると思います。
そんな軌跡を、皆様にも見ていただけるように「三代目への道」というコーナーをつくりました。
私の手のひらでしっとりと輝くガラス玉をみながら
「大昔の方からバトンを頂けたのかもしれない、もしそうであったら、恥ずかしくないように生き これからの時代の彩りに貢献させていただきたい」
と感じました。
山月工房では和泉蜻蛉玉を、パッションと、そして正直であること、を心に強く持って、これからも守り・育てて参ります。
私が「伝統を後世に残してゆくにはどうすればいいとおもいますか?」と聞くとピーノさんは、すかさず「パッション!」と言われました。
奥様のかなえさんが通訳をしてくださり
「ピーノはいつもパッションが大事だと言うんです。まずは、夢を持ち・環境を整え・あらゆる事に柔軟に対応し…そしてパッション(熱い情熱)があれば、オッケー!」とのことでした。
ピーノさんの先代もガラス工場だったと思います。
そんなピーノさんがおっしゃった言葉にはとても重みがありました。
日本とイタリア、遠くはなれた地ではありますが環境が私と似ている方から貴重なお話を伺うことで、これから歩む道筋が照らされたような気がしました。
最後は、パッション。
私自身が山月工房に、そして和泉蜻蛉玉にどれだけのパッションを注ぐことができるか・・・
そんなことを考えていた時に、今も私の中枢となっている父の言葉を思いました。
「ウソは絶対にあかん絶対に。人間は、自分にウソはつかれへんのやから」
自分は本当はどうしたいのか、どう思っているのか、自分の内なる声をしっかりと聞いて、パッション(情熱)に変換する。
これは自分にウソがあってはできないことだと思います。
言葉と表現こそ違いますが、もしかしたら父もピーノさんも伝えたいことの芯は同じであったのかもしれません。
ふたつの一歩
1000年前、奈良時代より続く和泉蜻蛉玉の歴史。伝統工芸品として認定された和泉蜻蛉玉ですが、しかしそこで歩みを止めていては伝統は続いてゆきません。
そこで、山月工房ではふたつの一歩を踏み出しました。
国宝復元と、千の時
山月工房は平成22年、世界遺産である平等院の阿弥陀如来坐像(国宝)の、瓔珞(ようらく)を復元しました。そのときのお話については詳しくはこちらをご覧ください。
「平等院鳳凰堂、国宝復元の話」
この時に1000年前につくられた国宝に使用されていたガラスと、山月工房で使用していた和泉地方で古くから作られてきたガラスが奇跡的にほぼ同じ成分であることが分かりました。
その事実に驚きましたが、このガラス材料は和泉地方で古くから作られてきた貴重なもので、現在では新たに入手することが困難な状況です。
そこで山月工房では、「千の時」復刻プロジェクトとして、同じ組成・色彩の材料を復刻・開発することにしました。
これが、ひとつめの一歩です。
三代目への道
そしてふたつめの一歩は、後継者の育成です。人の手と心によってつくられる和泉蜻蛉玉は、相伝によって受け継がれてきました。
山月工房では、1994年生まれで現在見習い修行中、伝統工芸士 松田有利子の娘、松田有綺(ゆうき)と研修生が三代目を目指しています。
三代目までの道のりは、わたしたち山月工房自身も気付いていなかった発見、いつか見返すことで蘇る想いが散りばめられた宝の道であると思います。
そんな軌跡を、皆様にも見ていただけるように「三代目への道」というコーナーをつくりました。
1000年のバトン
瓔珞復元の際に、1000年前の硝子玉を拝見させていただき、手のひらにそっと乗せさせていただきました。私の手のひらでしっとりと輝くガラス玉をみながら
「大昔の方からバトンを頂けたのかもしれない、もしそうであったら、恥ずかしくないように生き これからの時代の彩りに貢献させていただきたい」
と感じました。
山月工房では和泉蜻蛉玉を、パッションと、そして正直であること、を心に強く持って、これからも守り・育てて参ります。