二人の伝統工芸士

二人の伝統工芸士

二人の伝統工芸士

山月工房には二人の伝統工芸士がいます、先代 小溝時春と、二代目 松田有利子です。
小溝時春は平成16年5月に逝去し、現在は長女である松田有利子が工房を引き継いでいます。

二人の伝統工芸士

松田 有利子

まつだ ゆりこ
山月工房の二代目(先代の長女)
大阪府伝統工芸士 第85号

昭和42年12月5日生まれ 平成16年
父と共に歴史保存活動・歴史調査を経て父亡き後山月工房を後継
平成17年
大阪府伝統工芸士 第85号 称号を授与
平成15年
大阪府伝統工芸後継技術者作品展 大阪府知事賞
平成22年
平等院(京都)阿弥陀如来坐像瓔珞 硝子玉復元(国宝復元作業)
平成23年
大光明寺(東京)青龍弁才天 御前立ち像(模刻)宝冠の硝子玉製作

国宝復元について詳しくはこちら
平等院鳳凰堂、
国宝復元の話

松田有利子について

父より受け継いだ技術を大事に活かし女性伝統工芸士として活動中。
幼少時より父の工場(山月工房)で作業風景を見ながら育ち成人しても毎日通いつづけました。
和泉地方の硝子玉についての歴史保存活動・歴史調査をはじめた事が後の大阪府知事指定につながり父とともに歩んだ経験を活かし現在、山月工房 二代目として活動中です。

小溝 時春

小溝 時春

こみぞ ときはる
山月工房の創設者
大阪府伝統工芸士 第78号

昭和20年
終戦後11歳より家計を支える為、ガラス業に従事
昭和33年
叔父より硝子玉の技術を習得し工房(後の山月工房)を設ける
平成7年頃
和泉地方の硝子玉職人 最後の一人となり歴史保存活動を始める為和泉地方の硝子玉を「和泉蜻蛉玉」と名づけイベントなどに積極的に参加。
平成13年
大阪工芸展 入選
平成14年
「和泉蜻蛉玉」として大阪府知事指定に指定
平成14年
大阪工芸展 入選
平成15年
大阪府伝統工芸士 第78号の称号を授与  
平成15年
大阪工芸展 入賞
平成16年
永眠 享年69歳
大阪伝統工芸品産業振興協議会会長賞

小溝時春について(松田有利子記)

平成16年5月に逝去する間際まで工房に通い続け、和泉蜻蛉玉制作に打ち込んでいました。
とても優しくて素敵な父で、玉をつくる技術も飛び抜けて凄くて今の私では足元にも及びません。
激動の昭和、様々な苦難を乗り越え この道一筋にがんばってきた証として平成14年に大阪府の伝統工芸品指定、平成15年には大阪府伝統工芸士の称号を頂戴することができたのだと心より喜んでいた矢先、平成16年5月に逝去いたしました。

先代エピソード

仕事をしている父は、かっこよく何でもできる男の人っという雰囲気でしたが、意外にどんくさいところが多くありました。

大阪工芸展

先代である父との思い出としては、平成14年に「和泉蜻蛉玉」が大阪の伝統工芸品として指定をいただいた前後に2回ほど工芸展に出展をさせていただいた時のこと。
バリバリの職人である父は、「商品作り」は大好きなのですが、作家さん活動のような展覧会などに出品する「作品作り」は、苦手でした。
出展自体があまり好きではなく、おでこを赤くして困った表情をしていました。
父「髪の毛後ろでくくったりとかは絶対せえへんからな」
私「???だれもそれを求めてないから」などといった感じでした(苦笑)。
伝統工芸品の活動に携わった以上、大阪の工芸展など少しはこのような活動に貢献しないといけないと思い、父と私は書道をいっしょに習っていて書道の展覧会出展はしたことがあったので「玉も書道のような気持ちやイメージで出品してみよう!お父ちゃんの玉を私が見栄え良く加工するから!!!」と、随分私が父を口説きました。
そんなこんなで父の玉を使用したネックレスのデザイン加工を済ませ無事に出展することができました。
終了後、賞状をいただいた父はご満悦であったことを覚えています。

テントウ虫細工

この地域の地場産業であったガラス業なんですが、信太山駅(しのだやまえき)周辺はガラス玉・北信太駅(きたしのだえき)周辺はガラス細工、というように一駅を介してきれいに分かれていました。 自身も職人となり切に感じますが、同じガラス業でもその技術は全く異なるものです。
私は、ガラス玉の多くは父を介して触れることができていたのですが、硝子の動物・置物などのガラス細工は珍しくて仕方がなかったので、小学生のころ自転車に乗り、ガラス細工で有名なおじさんの工場へ行き、窓から作業を眺めていました。
ガラス細工を眺めた後、父の工場へ行き「ガラス細工作って!!」と無理を言ったことがあります。
父は、黙って笑ってくれていましたが、今思うととても困っていたことと思います。
夜になり帰宅した父が「はい。」と私に差し出してくれたのは、テントウ虫の置物でした。
いつもの綺麗な玉をつくる父にして、すごく下手くそなガラス細工に驚いた私は、二度と頼まないとココロに決めましたが、そのイビツなテントウ虫の置物がなんだかとっても嬉しかった思い出があります。

テイク9編

テレビ東京さんの取材で丸4日ほどかかった収録がありました。
和泉蜻蛉玉の文様づくりの際に使用する道具(ふるい)を手で取るだけ。。。なのに カメラ・照明が狙っていない道具を取ってしまうのです。
かるく打ち合わせ後、またまたカメラ・照明が狙っていない道具を取るの繰り返し、結局9回目でやっとOKでした。
その他、音声マイク(フサフサが付いた棒)を手で払いまくり音声さんに「音が拾えない」と注意されていたり。
収録がやっと終わり取材スタッフさんが帰られるとき
父「大したことないと思ったらやめといてな」
スタッフさん「・・・・・」

放射線状に編

デパート催事が終了し 持って行ったたくさんの荷物をきれいにまとめ台車にのせた主人。
あとは、自社のワゴン車まで気を付けながら台車を押すだけでした。
主人が少し目を離したすきに、父がその台車を約5m押しました。
お決まりのように、台車は引っかかり きれいにまとめた荷物・玉は台車を中心に美しく放射線状に散らばっていきました。
このときの主人は本当に気の毒でした。

プラスのマイナス編

自宅にて・・・。
日曜大工が苦手な父が、なぜか ある日 張り切っていました。
テーブルの椅子の上に立ったまま「プラスのマイナスちょうだい」
と言っています。皆、何のことかわからずに???と思っているとプラスのマイナスを連呼しだしました。
結局、プラスのドライバーを早く取ってほしかったようです。
その後も訂正なくプラスのマイナスを約20回言い続けた父でした。

家族の思い出

山月工房は、小さな家族経営の工場なので、父母両方の力を合わせ営んでいました。
注文の品を父が製作し、母が玉を作るための針金を真っ直ぐ伸ばす作業や、作った玉を針金から外し糸に通す作業、インチ別に結って、束ねていく作業など一生懸命こなしていました。
昔は、地場産業として栄えていましたので、その量は、とても多く・・・思い出の中の母は、いつも粉まみれでした。
二人三脚で、頑張った両親です。
いつも父が主役ですが、母の下手間(縁の下の力持ち)の頑張りもステキだなぁっと思っています。